出雲口伝から語りたい

出雲口伝をベースに古代日本の神々の系譜を掘り下げていこうと思っています。

【崇神天皇が畏れた神の正体② なぜ皇祖神を太陽神としたのか】

前回のブログで天照大神が政治的に誕生したことについて見てきましたが、それではなぜ皇祖神を太陽神としたのかについて考えていこうと思います。

 

大王家(ヤマト王権)が自らの祖神を太陽神としたのはいつからだったのでしょうか。

 

『アマテラスの誕生』(筑紫申真 著)で今谷文雄氏の論文から、敏達天皇六年(577年)に日祀部(ひまつりべ)を置いたとあることから(『日本書紀』)、その頃には太陽そのものを礼拝していた、しかし必ずしも「皇祖神としての 天照大神」を祀ったことを意味しないという説を取り上げています。この日祀部は他田(おさだ)という三輪山大神神社(おおみわじんじゃ)の近くですので、三輪山の神が日神の要素を持っていたのかということになりますが、記紀を見る限り三輪山の神にそのような要素は感じられません。

 

しかし出雲口伝からみると、あきらかに三輪山の神は太陽神としての側面を持っているのです。

 

出雲口伝によれば、三輪山周辺は出雲勢力と海部勢力が協力してつくりあげた政治的共同体(初期ヤマト政権)が存在した場所です。三輪山の初代祭主はタタラ五十鈴姫(たたらいすずひめ)であり、彼女が住んだ三輪山の西麓の地で彼女は太陽の女神を拝む儀式をおこなったとしています。

 

元々イズモ族はインドから太陽信仰を持ち込んでおり、特に朝日を拝む習慣がありました。そしてなぜ女神と考えたかというと、彼らの神名備山(かむなびやま)信仰(祖霊はきれいな三角錐形の山に隠っている、妊娠した女性の腹を連想する山は女神山)からきています。ヤマト地方では、朝の太陽は三輪山から昇ってくる。その山は女神山であったので、太陽神も女神であると考えられ、三輪山の神は太陽の女神と考えられたそうです。その後イズモ族の祖先神(サイノカミ三神)と、竜蛇神も祀ったため、大神神社の三つ鳥居や三輪山の神が蛇体ということになったそうです。三輪山にはサイノカミの一神である幸姫命(さいひめのみこと)が祀られたので山から流れ出る小川は「狭井川」であり、タタラ五十鈴姫の住んだところに狭井神社(さいじんじゃ)がありタタラ五十鈴姫が祀られているとしています。(『出雲王国と天皇』斎木雲州 著)

 

このタタラ五十鈴姫は『日本書紀』では媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)であり、初代、神武天皇の皇后であるとされている人です。『先代旧事本紀』によれば、彼女の兄は鴨王(かものおおきみ)である天日方奇日方命(あまのひがたくしひがた の みこと 天の奇しき力を持つ日(太陽)を祀る人)で、「日」が二つも入る人物、そしてタタラは「火」につながるため、この兄妹が太陽信仰に関係があったことを感じさせます。

 

彼らは古代の共同体における「ヒメヒコ制(姫彦制)」、宗教的権威(女性)と政治的・軍事的権威(男性)という男女首長の共同で三輪山周辺を統治していたと思われます。

 

その後、ヤマト内では政権が不安定となり数百年が過ぎるのですが、崇神天皇の時に太田田根子(おおたたねこ)に大物主を祀らせたことにより、三輪山の祭主は大田家となります。出雲口伝では実際の司祭は大田家の娘であったとしています。

 

そしてこの天皇の時、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)にまかせ、祀っていた天照大神天皇の御殿から笠縫邑(かさぬいのむら)に出したと『日本書紀』では伝えています。

 

この笠縫邑は現在の檜原神社(ひばらじんじゃ)の辺りと言われています。この神社は「元伊勢」と伝えられています。

 

この近くに他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)があり、この場所は敏達天皇が日祀部(ひまつりべ)を置いたところになるのですが、この神社の祭神は元々は海部氏祖神の天火明命(あめのほあかりのみこと)と言われています。そこからさほど遠くない場所に鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)があり祭神は天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)ですので、外に出された太陽神の天照(アマテル)は天火明命であったのかもしれません。自分達の直接の祖先ではないわけですから外に出すのもわかります。

 

このように古代では、村ごと、氏ごとに様々なかたちで太陽の神(アマテル)が祀られていたのだろうと思います。

 

 

そうすると、イズモ族の太陽神は女神で海部氏の太陽神は男神です。よってヤマト内では太陽神に関する二つの考え方が存在していたのではないでしょうか。

 

謡曲「三輪」の一節「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事」や、女装の三輪の神は実は伊勢の天照大神であるという能の『三輪』の話、祇園祭の山車に飾られる人形や、高野山曼荼羅天照大神の絵はひげのある男性の姿であること。

 

『アマテラスの誕生』の中に、鎌倉時代の通海(つうかい)とう高僧が伊勢神宮に参詣した時、「神宮の神様は蛇で、斎宮(いつきのみや)はその后である。アマテラスは毎晩斎宮のところにかよってくる。という人があるのだがそれはどう理解したらよいか」と神宮関係者から質問を受けた話や筑紫氏が伊雑宮天照大神の遙宮)でむかしからの神官の家筋にあたる人から「この宮のカミさんは蛇だったといっている。村の人 宮大工などはそういっていますよ」と聞かされびっくりした話が載っています。

 

このように天照大神の姿がバラバラなのは、元々太陽神について男女の二つの系統がありしかも出雲系(三輪山)と海部系(天火明命)が混ざったかたちで伝承されてきたからではないでしょうか。

 

筑紫氏は天照は元々男神であったとしていますが、私は古代から男女二つの系統があり、後の人達にははっきりしない時期があったのではないかと想像します。

 

男神か女神かはっきりしないということは、とりわけ女性である持統天皇を神格化するのに都合がよかったのではないでしょうか。

 

筑紫申真氏は天皇家の祖先神としての人格を与えられ天照大神がつくりあげられたのは天武即位後から持統天皇のころまで(673年~697年)頃としています。私もその頃ではないかと思っています。

 

なぜ皇祖神を太陽神としたのかの理由としては朝廷は日祀部を設置し太陽神の祭祀を国家的に行うようになっており、太陽神の性格は男でも女でもあった(はっきりしない)ため持統天皇を神格化するにあたって都合がよかったからだと私は思うのです。

 

次回はなぜ天照大神が伊勢で祀られることになったのかを考察したいと思います。